| 英国パブリック・スクールとスポーツの歴史 マイケル・プラウドフット 平成15年9月3日 |
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| 1 何が以下の3つの出来事を結びつけるのでしょうか。 | |||
| 1. | 1815年のウォータールーの戦いとウェリントン公爵によるナポレオンの決定的敗北 | ||
| 2. | 1930年のウルグアイで開かれた、サッカーの第一回ワールドカップ(昨年の韓国と日本におけるワールドカップは記憶に新しいところです。) | ||
| 3. | 1896年のアテネにおける第一回近代オリンピック競技会(来年2004年には再びアテネで開催される予定です。) | ||
| この講演では、これらの3つの出来事と英国パブリック・スクールとの間の関係について述べたいと思います。しかし、それらのいくつかの関係が一般的には間違って伝えられたり、誤解されているということを、先ず強く皆さんに主張したいと思います。 2 英国人の世論調査 まず最初に、ウォータールーの戦いとの関係を取り上げてみましょう。 今年の早い時期に、BBC(英国放送協会)に代わってより公正と言われる世論調査が行われました。それは、イギリス人は、イギリス人全体の中で誰を最も偉大な人物と考えているかを発見するものでした。結果は、予想にたがわずウィンストン・チャーチルが1位に選ばれました。 しかし、150年前の1853年に世論調査が行われたとすれば、疑いもなく別の戦争の英雄をイギリス人全体の最も偉大なイギリス人と考える結果になったでありましょう。即ちウェリントン公爵、鉄の公爵、アーサー・ウェズリー(1769−1852)であります。チャーチルが2つの最も有名なパブリック・スクールの一つであるハロウ校で教育を受けたことは広く知られているところですが、一方、ウェリントン公爵は、もう一つのさらに有名なイートン校で学んだのであります。 ウェリントンは、ナポレオンとの戦いにおいて度重なる勝利をあげ、エルバ島への追放からナポレオンが劇的脱出を果たした後、ウォータールーの戦いでナポレオンが決定的敗北を喫した結果になったために、国民的英雄になったのであります。ウェリントン公爵が次のように述べたのは有名であります。「ウォータールーの戦いはイートン校の運動場で勝ち取られた。」 この言葉は、イートン校の運動場で学んだ組織化されたスポーツ競技で培われた、訓練と気質を持って、ウェリントンのもと、ナポレオン率いるフランス人を打ちのめすことができたということを意味するものと解釈されています。 3 ウォータールーの戦いは勝ち取られた・・・ しかし、私たちは,この解釈には疑いをもつべきであります。なぜなら、ウェリントンが実際に「ウォータールーの戦いはイートン校の運動場で勝ち取られた」と言ったということは、ありそうもない話だからであります。1855年にフランスの歴史家でもあり政治家でもあるシャルル・モンタランベールが、「イギリスの政治的未来について」という論文の中で、ウェリントンに言及した時には、ウェリントンは3年前に死亡していたのであります。その頃までに、多くのパブリック・スクールは既に本質改善の過渡期に差し掛かっていました。 ウェリントン公爵は、そのころアーサー・ウェズリー閣下でありましたが、1781年から1784年まで、12歳から15歳までイートン校で学びました。そして記録によれば、彼は怠惰で夢多き少年であり、組織だったスポーツ活動という点ではほとんど見るべきものがありませんでした。運動場で見られるいろいろな運動は、経験のない者にとっては、競技というより規則のない取っ組み合いのように見えました。そして、実際しばしばそういうものでありました。 一種のサッカーも、またクリケットも少年達によって自分自身の楽しみのために全く組織化されて行われました。それらは、石蹴り遊び(hopscotch)やビー球遊び(marbles)あるいはバドミントンの初期の形態である羽根突き(battledore)といった多くの「遊びのような競技」の他に行われたのであります。ウェリントンの仲間のイートンの生徒たちは、教室の外でこれらの競技に何時間も費やしました。学校の建築上の特徴を利用した競技もありました。礼拝堂の壁を使って行われた(今日も行われている)クリケットの5点打(ファイブス)やフットボールの一種であるウォールゲームは今も行われています。とりわけ、王室の王子たちが他の生徒に混じって楽しんでいます。 |
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