岡山中学校・岡山高等学校

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『荒城の月』が教えてくれるもの

2017/08/27

『荒城の月』が教えてくれるもの

岡山中学校・岡山高等学校

校長 鷹家 秀史

 

年始の頃、大学時代のサークルの同窓会に40年ぶりに参加しました。場所は「がんこ高瀬川二条苑」。京の人々に古くから親しまれ、愛されてきた高瀬川の流れは、豪商 角倉了以の別邸跡を通り、木屋町通りをくぐって再び、姿を現します。慶長十六年(1611年)、了以によってつくられた庭苑はその後、明治の元勲 山縣有朋の別邸「第二無鄰庵」となり、その後、日本銀行総裁川田小一郎の別邸、安倍市太郎氏の所有を経て現在は「がんこ高瀬川二条苑」という懐石の料亭となっています。日本の近現代史を飾る巨頭を思い出させてくれる場所でした。四十年ぶりの再会は時間の経過を飛び越え、私は懐かしさに胸を躍らせました。当時、私は「京都大学歴史研究会」というサークルに所属し、仲間と一緒になって明治期の研究を行っていました。幕末から明治初期、日清・日露戦争を経て、明治政府がその基盤を充実させ、当時の日本人の心の中から江戸への郷愁を払拭し、新しい日本人のアイデンティティを形作るまでのプロセスを、主に地方青年団運動や報徳運動のイデオロギーの分析を通じて行うというものでした。最近、司馬遼太郎氏の『明治という国家』を手にすることがあり、私は大学時代にタイムスリップすることになりました。

日本人だったら誰でも知っている曲に『荒城の月』があります。土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲の名曲です。晩翠が作った歌詞の原題は『荒城月』だったそうです。今風に読み下すとだいたい次のようになります。「空にある月の姿は昔もいまも変わらないが、地上の栄枯盛衰の有様を見て、その時々の姿を写し取ったはずの光は、今はもうない。しかし、今荒れ果てた城跡に立って荒城を照らす月の光を見ると、この城の栄枯盛衰が目の当たりに想像され、まるで当時の光が写し取った光景を自分の目の前に披瀝してくれようとしているように思われる。ああ、荒城にかかる夜半の月よ。」

『荒城の月』は日本歌曲の第一号と言われ、明治33年瀧廉太郎(18791903)22歳のときの作品です。百年以上もたった今日においても色褪せることのない、日本の歌を代表する名曲だと思います。瀧廉太郎は、東京麹町の尋常小学校を出て、14歳のときに一家をあげて大分県の竹田に移住、竹田の高等小学校に入りました。16歳という最少年齢で東京音楽学校 (現東京芸大) に入り、22歳(明治33年)のときにはドイツ留学を命ぜられます。

この『荒城の月』について司馬遼太郎氏は、「明治4年の廃藩置県によって当時家族を含めると百九十万人の士族階級が一夜にして職を失い崩壊しました。時の明治政府は士族の心の拠りどころであり、また象徴である城に彼らが立てこもって反抗されては困るということで、全国二百七十余藩の城を次々と取り壊していきました」と書いています。

一方、土井晩翠(18711952)は祖父の「商人に学問は無用」という考えで進学が許されず、質屋の家業に従事しながら英語の通信教育を受け、明治20年に斎藤秀三郎主宰の仙台英学塾に通学を許され、のち第二高等中学校(東北大学の前身校)に入学、明治27年には帝国大学英文科に入った。大学卒業後、郁文館中学の英語教師として採用。明治31年に東京音楽学校(現・東京芸術大学)から中学唱歌用の歌詞を委嘱され、『荒城月』(後に『荒城の月』)を作詞。同校がこの詩につける曲を公募し、瀧廉太郎の曲が採用され、明治34年に『荒城の月』として発表、『中学唱歌集』に収められたといいます。

瀧廉太郎が幼年期と少年期を過ごした豊後の竹田城は岡城とも呼ばれていました。この城も廃藩置県のあと、明治政府が反乱を恐れて取り壊してしまいました。瀧廉太郎が作曲した『荒城の月』は仙台出身の英文学者土井晩翠の作詞ですが、その第一節に「春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして 千代の松が枝わけいでし 昔の光いまいずこ」とあります。瀧廉太郎の子供のころ、竹田城の月見櫓はすでに取り壊されていたとはいえ、彼が土井晩翠のこの詞を読んだとき、その脳裡に湧くように現れたのは豊後竹田の古城だったはずです。さらに言えば、東北人である土井晩翠のイメージにあった「荒れにし城」とは、彼が旧制二高生のときに訪れた白虎隊で有名な会津若松の鶴ケ城であったと晩翠は回想しています。戊辰戦争の時、佐幕派代表のような役回りを押し付けられ、江戸時代の終焉を象徴することになった鶴ケ城とその侍の拠り処こそ、「荒城」の名にふさわしかったのかも知れません。

二人の脳裏に浮かんだ「荒城の月」は、ともに、明治4年の廃藩置県の後の数年の間に壊された城ばかりです。瀧廉太郎もまた廃藩置県によって陥没した武士階級の出身である事は間違いなく、彼が作った曲にその階級の象徴である城への思いが込められていたはずです。『荒城の月』に「天上影は替わらねど 栄枯は移る世の姿」とありますが、旧藩時代への挽歌、鎮魂の歌と考えてよいのかもしれません。

『武士道』 (明治三十三年刊)を書いた新渡戸稲造 (18621933)が「日本人とは何か」とい問われたとき、「明治人は武士道を持ち出さざるを得なかったのです。ではサムライとは何か、と問われれば、自律心である、ひとたびイエスと言った以上は命がけでその言葉を守る、自分の名誉も命を懸けて守る、敵に対する情。さらには私心を持たない、また私に奉ぜず公に奉ずる、ということでありましょう。それ以外に、(当時の日本人が)世界に自分自身を説明することはなかったのです。」と司馬遼太郎は書いています。少なくともとも日露戦争の終了までの日本人は「武士道」という言葉で説明できるのではないでしょうか。あるいは、「武士道」という言葉で自分自身を説明されるように日本人は振舞ったのではないかと考えています。皮肉なことに、武士が廃止されて (明治四年の廃藩置県)初めて、武士道が日本人の心の中で思い出されたのであって、過去は理想化されるように、武士道もまた理想化されて「明治の精神」となったのだと思います。               ―学校誌『みしま』10号―

  1. 春高楼の花の宴 巡る盃影さして      
    千代の松が枝分け出でし 昔の光今いずこ
  2. 秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
    植うる剣に照り沿ひし 昔の光今いずこ
  3. 今荒城の夜半の月 変わらぬ光誰がためぞ
    垣に残るはただ葛 松に歌うはただ嵐
  4. 天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿
    映さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月